こう考えたら、一気に楽になった~メタ認知について⑤~

メタ認知って?
メタ=高次の、~を超えた
です。

メタ認知とは「高次の認知」
簡単に言えば「一段上から、自分を知っている状態」のことです。

楽しく遊んでいる自分に対して
「楽しいのは分かるけど、宿題やらなくていいの?」とささやいてくる別の自分
これがメタ認知です。

メタ認知それ自体は、自分を別の視点から捉えることができる点で
とても素晴らしい能力です。

けれど、メタちゃんが発達しすぎると
自分の想定・推測・憶測…これらに縛り付けられてしまい
苦しさ、不安から自由になるのが難しくなってしまいます。


私自身、このメタ認知がとても発達していて
誰・何がどうこうではなく
自分で自分を縛り付けていました。

そのなかで内省し、少しずつ分かってきたことを
シェアしていきたいと思います。
「~~させてしまって、ごめんなさい」を乗り越えるための気づき
私の場合、メタ認知をこじらせるきっかけになったのは「裕福な家の一人娘として生まれたこと」でした。
周りの大人に可愛がってもらったものの「お父さんの娘だから可愛がってくれるんだよね。本当は嫌だよね。ごめんなさい」とずっとずっと感じていたのです。

長年、それこそ30年近く「皆さんごめんなさい」と思っていたことから、一歩を踏み出すきっかけになったのは
「本当にそうなの?」
と、自分自身のメタ認知を、さらに新しいメタ認知で疑ってみることでした。


みんながみんな、私と同じ価値観なわけではないのに
みんながみんな、私と同じ感性なわけではないのに

父の近くにいる人たちは、会社の人たちは、「大人」で
多かれ少なかれ、彼らの意思で、それを選んだのです。

ここに気づいたとき
(自分で気づいたというより、知人との会話で向こうが教えてくれた、という感じですが)
私には、華やかな社交の場が合うタイプではなかったけれど
会社の人たちは、そういう世界が合うタイプだったかもしれない。(いわゆる一流営業マンという存在だったのです)

少なくとも、3歳児の私が
世間の何たるかを全く知らない時分に
自分の命そのものに劣等感を覚えて
申し訳なさを感じる必要は、なかったのだと思います。

彼らのそれまでの人生を何も知らず、人柄も満足に知らないうちから
彼らの選択(父と交流する、その一環として娘(私)のことを可愛がる)に対して
私が勝手に決めつけて、思いこんで
自分の人生を狭めようとしたり、申し訳なく思ったりする必要はなかったのです。

だって、彼らの気持ちは分からないから。

ただ分かることは、彼らは、多かれ少なかれ「自分の意思で、それを選んだ」ということ。

その選択(+それに伴う感情)に、私は何の責任も負う必要はないし
責任を持とうとすること(持てると思うこと)は、大きなお世話で、傲慢だったのです。


そして、確かなのは
私の心・私の意図は
彼らを傷つけよう、不快な思いをさせよう
そういうことは、一切なかった、ということです。
客観性といっても、「主観の範囲内で頑張ったこと」でしかない
私は、私のものの見方・感じ方…すなわち主観をベースにしか物事が見られなくて
これはどんな人にも共通していて
どんなに客観性を持とうとしても、100%は不可能なのです。

そもそも客観性とは、別の可能性・視点をどれだけ提示できるか?ということであり
そこで提示された可能性・視点が、答えに直結するわけでもありません。

すべての可能性・視点が提示できたら、その中に答えも含まれるかもしれないけれど
それは、人である(=主観に基づいて物事を判断する)以上、不可能でしょう。

だから、私が行う客観視とは、正確には
私の主観、私が頑張って思いつく範囲内における別の可能性・視点の提示
でしかないのです。

結局のところ
他者や、さらに広い世の中(人の集合体)の何かを「分かる」わけがなくて
あるいは、一部を「分かる」ことができても、全部は不可能で
あるいは「分からないといけない」でもなくて
「分かる」からといって、責任を持たないといけないわけでもない。

私は今まで、他者の感情・選択に対して
私自身が責任を持とうとしてきた。

それこそ、3歳児のころから。
あるいはもっと昔からだったかもしれない。

自分を責めやすい個性だったのだと思います。
たまたま、頭が回る方で、そのくせ人より繊細だったのかもしれない。
けれど、当然のことながら全知全能ではありません。

自分の解釈・判断を絶対視しないこと
他者の選択・感情に責任を持とうとしないこと
これが、私の課題だったのかもしれません。

私には、こう見える・こう感じる
でも、全然別の可能性だってあるよね?
そもそも、そこは私が責任を感じることなのかな?

今まで、他者の選択・感情に責任を持とうとしてきて
それはつまり、他者を支配・コントロールしようとしてきたということです。
そんなこと、できっこないのに。
私は、誰に許されたかったのか?
そして、他者に対してそれだけ意識を向けてきたということは
自分に対して無頓着すぎた、ということ。
自分の選択・感情に無責任だったのです。

だから私はずっと、他者を優先しては消耗してきた。断れなかった。
断れないから、無理なことからは無理をしすぎて爆発するか、逃げるしかできなかった。
誰も幸せになれない関わりしかできなかった。

私は、誰に許されたかったのでしょうか?
両親?親戚?会社の人?

きっと
私は、私のメタ認知に許されたかったのです。認めてほしかったのです。
3歳児のころから、ずっと私に厳しかったメタちゃんに。

長かったメタ認知シリーズですが、次回の投稿で結論・まとめをしてラストにしたいと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました(*^^*)
また次回♪

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